私の担任するクラスにも、この本でいう"あの子"がいます。
私は高校教員ですので、一日中同じ教室で授業をしたりすることはありません。
その代わりに、各教科担当から色々な報告やご意見を頂きます。
同じ教室のクラスメートからも心配する声が聞こえてきたり、怒りに近い意見も出て来ます。
"教師が(あの子にとって)学校での人としての砦です。"
他教員にも、クラスメートにも言い過ぎてしまう人がいます。
それは、人権侵害ともとれる内容です。
クラスメートには私から話し合いを持ちかければよいですが、他教員ともなると難しいことも(教員のがひどい場合も)あります。
つくづく思うのは、
まず出来ないことを受け入れた上で、この瞬間から何ができるかを対話を通して考えることだと思います。
これを私がしなくなれば、砦はなくなります。
もちろん、対話をしていればよいというわけではありません。
そこが、今回の"きれいごと抜きの"の部分につながります。
どうしても共同生活の中で摩擦が生じやすくなったり、説明中に発言してしまったり、忘れ物があったり、授業で寝てしまったりします。
"みんなを「普通」にしようとしていか"
これはとても感じます。
職員として働いている私でも息苦しさを感じるほどです。(これは私の人間的な資質によるものだと思いますが。笑)
学校として守らせねばならないことはあります。
しかし、本当に必要な「授業規律」なのか?みんなと同じことがそんなに大切なことか。
ルールをみんなで破ってしまうのではなく、
ルールの意義をみんなで考えることが大切だと考えます。
物事を多角的に捉えて、
"例外の作り方"や、
(全員でない)みんなが良いと思える第3案を考えることが、
"あの子"の居心地を保証し、
その他の子たちも我慢を強いらないことにつながると考えています。
私自身が自分に染み付いた"普通"を認知すること。
その上で自分のタイプを理解して、指導していくこと。
この2つが大切になりそうです。
おわり。