gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

部通信 part24

[理由]

バレーボールがしたい。

仲間と思える部員と共に日々を過ごしたい。

誰かの力になりたい。

 

部に所属し活動する理由はみんな違って良いし、難しくなくていい。

部活が行かなければならないものだと思い込んでいたとして、

こうやって選択肢ができたとき、理由がなくなってしまうこともあるだろうし、そこから理由を探すことだって出来る。全ては自分次第。

思い描く部活へ参加する理由が叶わなかったり、目的が自分で見つけられなければ、部活動を続けないという選択肢も当然ありえる。

 

「試合に出られないのに部活に行ってもしょうがない。」

と、その人が思えばそれがその人の正解。

「試合に出られなくてもチームに貢献したい。」

と、その人が思えばそれがその人の正解。

家でYouTubeみたり、ゲームしたり、誰かと遊びに出かけたり、働くための準備をしたり。

選択肢は無限にある。

 

どんな選択肢も許されている中で参加する人には、理由があるのだろう。

理由を見出し、そこに向かっていく。

努力をし、我慢もすることもある。

そういった人間を私は心底尊敬する。

 

誰かに褒められたいからでも、

誰かに怒られるからでもなく、

純粋に君の見出した理由で活動してほしい。

 

そして、部としての目的を共有しながら、ま 毎日を楽しく、厳しく、そして楽しくやっていけてらいいと思う。

自然状態

高1

17:08

ミス:5

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「勉強は好きですか?」

と問うて、

好きが何%で、嫌いが何%になるだろう?

どんな割合が自然と言えるだろう?

(好きが50%で嫌いが50%? 100対0?)

 

どこの誰にどんな調査をするかによって結果は左右されるだろうし、

勉強という言葉に対しての意味づけが皆違う。

アンケートにするならこの内容に近い選び抜かれた100の質問を用意する必要がありそうだ。(脱線した。)

ざっくりとした何らかの調査を日本でしたとしよう。

「好き」が50%を上回ると皆は予想するだろうか?

何となく、、、嫌いは人が多そうな気はしないだろうか?

 

学ぶことは日常生活に溢れている。

机に向かわなくたって、生活していれば色んな経験があって、最適そうな選択を毎日して生きていること自体が学んでいると言ってもいい。

 

でも、「勉強」って言葉になると急に何だか、いやーなイメージがへばりついてやしないだろうか。

何でだろう。

勉強そのものじゃなくて、その環境や方法、社会における勉強の立ち位置を全て取っ払ったら、

ご飯食べるみたいに、歩くみたいに勉強ってできないかな?って考えているわけです。

勉強が大変なことで、努力の代表格にいなければ。

勉強ってできるんじゃないかって。

(この状態を、「自然状態」と勝手に呼んでいます。)

自然に勉強を、「勉強しよう!」って思わなくてもできるようになれる事が、

一番最強なんじゃないかって思う。

 

勉強ができるようにはどうしたら良いだろう?ってスタートせずに、

勉強が特別じゃないもので、生活の一部ような状態(自然状態)になるにはどうしたらいいだろう?

ってスタートしてみてもいいかもしれない。

最後の問 part3

part1の記事よりこのシリーズの説明を。

 

3年間共に学んできた、担当2クラスの最期のテストにて“最後の問”なるものを出してみた。

問いの内容は、

”これまでの授業と日常生活の中から、西尾が伝えたかったことは何だろう?また、授業や日常生活の中で感じたことや学んだことがあったら書いてみてください。”

というものにしてみた。

テストの時間に書いてもらったものなので、時間のある人が簡単に書いてくれればいいなぁと思ったのですが、かなりの数が集まったので、このコメントから色々と記事を書いてみる。(ブログ掲載許可取得済み)
以下はpart3の内容

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"哲学対話ではみんなとの”価値観”の違いについて学べた。最初は仲の良い友達とやって、正直「いつもずっといるからそんなん分かるわ」と思い込んでいたが、いざ口に出して対話すると案外みな物事に対しての考え方が違うことを実感した。改めて口に出すことの大切さを知ったし、口に出さないと分からないことだらけだった。そして何より哲学対話で学んだことは視野というか物の見方が変わったと思う。

例えば、今までの自分は「うわこの人無理だな」と竿書からその人物を否定していたのが、「じゃあなぜ私はこの人が無理なのか」ということを考えるようになった。そうなると自然にその人のことを知りたいと思うようになる。それを続けていると案外、自分と似ているところやリスペクトする部分が見えてくる。西尾先生が言っていた”人はみな先生”という言葉に納得ができた。"

 

確かに私は哲学対話には良さがあると思っているので、

私は対話の場は開きましたが、これらのことを伝えたことはありません。

授業っぽくなるのが嫌なので、いつも哲学対話はやっておしまいです。

私は哲学対話が好きで、彼はこう感じただけ。

それを差し引いても、こう思ってくれたのはうれしいです。

 彼が周りの人たちを少しずつ先生にできたように、

彼を含む、皆が私を先生にしてくれる。

感謝です。

書きながら、込みあがってくるものがありますね。

最後の問 part2

part1の記事よりこのシリーズの説明を。

最後の問 - gt-24o’s blog

3年間共に学んできた、担当2クラスの最期のテストにて“最後の問”なるものを出してみた。

問いの内容は、

”これまでの授業と日常生活の中から、西尾が伝えたかったことは何だろう?また、授業や日常生活の中で感じたことや学んだことがあったら書いてみてください。”

というものにしてみた。

テストの時間に書いてもらったものなので、時間のある人が簡単に書いてくれればいいなぁと思ったのですが、かなりの数が集まったので、このコメントから色々と記事を書いてみる。(ブログ掲載許可取得済み)

以下はpart2の内容

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とても嬉しいコメントだった。

 

私は自分の感覚で選ぶこと半分、

お勧めされたものをとりあえずやってみること半分くらいが好きなのだが、このバランスも選べてもいいと思う。

5W1Hを選び、学びを進められる学校の選択肢をもう少し伝えたかった。

私自身は自分の授業などの手の届くところを他の先生の迷惑にならない程度で色々とやってきた。

本来は僕らは選べる。

選ぶか決めてもらうかも選べる。

 

ルールは私たちが守らせるものという側面はあるけど、本来は守る側で自分たちで作っていけば自然と守れるものだと思っている。

↓今の環境の違和感の取り扱い方について書いた記事はこちら

「あれ?」と思ったときに - gt-24o’s blog

色んなルールはあれど、これをどう扱うかは私たち次第。

そんな感覚を持ってくれたのかな?

と思う。

最後の問

3年間共に学んできた、担当2クラスの最期のテストにて“最後の問”なるものを出してみた。

問いの内容は、

”これまでの授業と日常生活の中から、西尾が伝えたかったことは何だろう?また、授業や日常生活の中で感じたことや学んだことがあったら書いてみてください。”

というものにしてみた。

テストの時間に書いてもらったものなので、時間のある人が簡単に書いてくれればいいなぁと思ったのですが、かなりの数が集まったので、このコメントから色々と記事を書いてみる。(ブログ掲載許可取得済み)

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“自分で考え、行動し、他者に教えられるのを待つのでなく、自己で責任を持ち、知識を得るために動くこと。それと、リスク管理。”

 

他者に教えてもらうことや質問することは学習を進めていく上では有用だろう。しかし、自分の中に明確に問いたいこと、知りたいこと、わらないことがなければ問うことは出来ない。

仕事などをして、誰かのために力を使う体験などがあると、問いは浮かんできやすいと思う。

学校で教室の中で、この問いを出すことが難しく感じる。

特に教員側が主導で、学び方や内容も決められ、授業規律なるもので不自由を感じやすい者にとっては学習どころではないだろう。

1コマ50分という時間設定、時間割は無視できないものの、学習環境(全授業PC室)、学習に使う媒体や内容、被評価物などを学習者が決められるようなシステムにした。

その環境だったからこそ、上記のようなコメント・感想になったのだと思う。

 

リスク管理という言葉が出てきたのは、

課題研究という別の授業の影響だろう。

生徒自身でテーマを決めて一年間で課題に取り組む授業なのだが、私の担当班は畑村洋太郎さんの「失敗学のすすめ」という本を中心に失敗ついて学んだ。

課題研究についての内容も紹介できたらいいと思う。