現在、寺子屋塾中村教室へ通っています。
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メインの教材は、らくだメソッドを使用しています。
らくだメソッドについてや、日常の出来事に井上さんと対話をしながら、
本や記事を紹介されたり、他のワークに取り組みながら時間を過ごします。
そんな中で、何だかとても気になっている人がいます。
吉本隆明さんです。
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気になるのですが、吉本さんの本を読み解くは簡単ではないです。
気になっているのは、
「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」
という概念です。
こちらの本から一部引用してみます。
対幻想論
p.176
フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を、集団とそれぞれの個人の関係とみなした。けれど、男・女のあいだの心は、個人の心ではなく対になった心である。そして、集団の心と対になる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が大きく登場するようになったのである。もちろんそれは近代以後の〈家族〉の問題である。
3つの幻想に関係しそうなモヤモヤを言葉にしてみようと思います。
主にコミュニケーションにおけることです。
「君たちは・・・」
「みんなもそうしてる・・・」
という言葉を言ったり聞いたりするときに、
「自分は誰に話しているんだろう。」とか、
「あの人は誰に話しているんだろう?」という違和感です。
その場にいる人でしか、対話は成立しないのに、どこにもいない誰かが持ち込まれる感じがすることに違和感を感じることがあります。
対での難しさとしては、
自分はまったくそういう気がないのに、
「自分はあなたと接している中で、こう感じたという事実がある。」
と言われてしまう場合です。
自分は一人しかいないし、相手も一人しかいない。
したがって、二人の問題は世界で一つしか問題で、
その人がそう感じてしまったら、間違いなくそうなのだ。
そして、自分以外に自分が存在しないのだから、自分以外の誰かと毎回、オリジナルな関係を築いていく上で、上記のようなことを言われることも少なくないだろう。
そんな時は、
「あーそうなんだね。」と正しく言っていることを聴き、受け止めること。
しかし、受け入れるかどうかは、自分との問題だ。
最終的には、自分がその人との関係を決めればいい。
相手を変えようとすることは、自分ができる範疇を超えたことだと思う。
負う必要のない責任を負わそうとされてしまうことが多いなぁとも感じています。
(被害者意識や当事者意識の欠落によるものなのかなぁと苦しくなります。自分を含めて身の回りにいる人たちと共に養っていきたい意識です。)
自分とのことでいえば、
対との関係や共同との関係の中で、
自分が及ぼすことのできる範囲に自覚的になれることの大切さを痛感しています。
人が一人でやれることには限界があるはずなのですが、
努力や意志でどうにかなるという言葉は世に溢れているように思えます。
(遠い昔には、「意志」という概念がなかったそうです。)
そう考えると、人は自然に対しても少し傲慢なのかなと。
一人の自分は、同時に複数の人に、まったく同じ意味で、言葉に紡げない。
(目の前の人を、他の誰でもない一人の人だと思えば言葉は変わってくるだろうと思うから。)
だから、同時とか一気に誰かに影響を与えていくことって簡単なことじゃない。
自分から見たら”人たち”は集団であったとしても、
その集団に属している一人一人からすれば、私も集団の一人なのだ。
その集団には自分は含まれていることを忘れてはいけない。
ならば、それを自分以外の人の集まりだと思うことから、
少しずつでも、一人の人の集まりとしてみていくことができれば、
自分ができることが増えていくように思います。
これらの苦しさは、
個人・対・共同の線を踏み越えることで起きるのでは?
と感じています。
長い時間をかけて考えていきたいテーマです。