gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

研澄仮出

中1−31

ミス9

13:29

 

自分と向き合う時間をとると、

自分の調子が自分だけの影響でないことがわかってくる。

自分の選択は自分に返ってくるのだけど、

その選択には、他から多分な影響を受けているからだ。

他から影響をあまり受けずに自分が選べている領域のことと、

他からの影響を受ける中での自分が選んでいることを何となくでも分けてられると、

自分がやれることに限りが出てくるから少しながら楽になれる気がしている。

 

自分が変えられることなのでは?という仮定(問)が湧き出てきたなら、少しずつやってみてはどうだろう。

そうでないなら、諦めて、やめてみるのはどうだろう。

 

終わり

不自自作

中1−30(手書き2枚目)

寺子屋に行かなかったので、B4の紙に問題書いてやってみました。データをその日のうちにもらったのですが、職場で印刷するのを忘れてしまって2枚目の手書きです。笑 平井さんのすごさを体感(できているのかな?)中です。笑

12:25

ミス3

 

プリントをやると決めていて、

「”プリントをやりたくない”からやらない。」

という状態は自由を行使しているように見える。

しかし、

やると決めて”やりたくない”という自分の認識で、

(やると決めてやらなかった事実も同時に発生)

結果やれていないのは、不自由ではないだろうか?

”やりたくない”自由を行使することで変化をしないでいたいのかもしれない。

 

やりたい・やりたくない

に関わらず、

いつならできるだろう?

と試行錯誤することが結果として、

「いつでもどこでも”スッと”プリントをができる。」

という自由に向かう。

試行錯誤する過程では、なかなかうまくいかない自分と向き合わなくてはいけないし、自分が自分の思うように動かないから不自由に感じる。

だからこそ、”できない体験”が重要で、そこで自分と向き合うかどうかは鍵になる。

できないからと言って苦しむ必要はない。

なんだか自然と”できる”状態へ向かう道筋は皆違う。

自分が知らずに課せている思い込みを外し、

自分で自分を動かしやすいフレーミングを新たに課せていくことが”できる”に向かう一歩めのような気がしている。

 

終わり

寺子屋塾と吉本隆明さんと「自分・あなた・みんな 」

現在、寺子屋塾中村教室へ通っています。

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メインの教材は、らくだメソッドを使用しています。

らくだメソッドについてや、日常の出来事に井上さんと対話をしながら、

本や記事を紹介されたり、他のワークに取り組みながら時間を過ごします。

 

そんな中で、何だかとても気になっている人がいます。

吉本隆明さんです。

www.1101.com

 

気になるのですが、吉本さんの本を読み解くは簡単ではないです。

気になっているのは、

「個人幻想」「対幻想」「共同幻想

という概念です。

 

こちらの本から一部引用してみます。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

対幻想論

p.176

フロイトは集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の関係を、集団とそれぞれの個人の関係とみなした。けれど、男・女のあいだの心は、個人の心ではなく対になった心である。そして、集団の心と対になる心が、いいかえれば共同体とそのなかの〈家族〉とが、まったくちがった水準に分離したとき、はじめて対なる(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題が大きく登場するようになったのである。もちろんそれは近代以後の〈家族〉の問題である。

3つの幻想に関係しそうなモヤモヤを言葉にしてみようと思います。

主にコミュニケーションにおけることです。

 

「君たちは・・・」

「みんなもそうしてる・・・」

という言葉を言ったり聞いたりするときに、

「自分は誰に話しているんだろう。」とか、

「あの人は誰に話しているんだろう?」という違和感です。

その場にいる人でしか、対話は成立しないのに、どこにもいない誰かが持ち込まれる感じがすることに違和感を感じることがあります。

 

対での難しさとしては、

自分はまったくそういう気がないのに、

「自分はあなたと接している中で、こう感じたという事実がある。」

と言われてしまう場合です。

自分は一人しかいないし、相手も一人しかいない。

したがって、二人の問題は世界で一つしか問題で、

その人がそう感じてしまったら、間違いなくそうなのだ。

そして、自分以外に自分が存在しないのだから、自分以外の誰かと毎回、オリジナルな関係を築いていく上で、上記のようなことを言われることも少なくないだろう。

そんな時は、

「あーそうなんだね。」と正しく言っていることを聴き、受け止めること。

しかし、受け入れるかどうかは、自分との問題だ。

最終的には、自分がその人との関係を決めればいい。

相手を変えようとすることは、自分ができる範疇を超えたことだと思う。

負う必要のない責任を負わそうとされてしまうことが多いなぁとも感じています。

(被害者意識や当事者意識の欠落によるものなのかなぁと苦しくなります。自分を含めて身の回りにいる人たちと共に養っていきたい意識です。)

 

自分とのことでいえば、

対との関係や共同との関係の中で、

自分が及ぼすことのできる範囲に自覚的になれることの大切さを痛感しています。

人が一人でやれることには限界があるはずなのですが、

努力や意志でどうにかなるという言葉は世に溢れているように思えます。

(遠い昔には、「意志」という概念がなかったそうです。)

そう考えると、人は自然に対しても少し傲慢なのかなと。

 

一人の自分は、同時に複数の人に、まったく同じ意味で、言葉に紡げない。

(目の前の人を、他の誰でもない一人の人だと思えば言葉は変わってくるだろうと思うから。)

だから、同時とか一気に誰かに影響を与えていくことって簡単なことじゃない。

 

自分から見たら”人たち”は集団であったとしても、

その集団に属している一人一人からすれば、私も集団の一人なのだ。

その集団には自分は含まれていることを忘れてはいけない。

ならば、それを自分以外の人の集まりだと思うことから、

少しずつでも、一人の人の集まりとしてみていくことができれば、

自分ができることが増えていくように思います。

 

これらの苦しさは、

個人・対・共同の線を踏み越えることで起きるのでは?

と感じています。

長い時間をかけて考えていきたいテーマです。

未来デザイン考程 と 『「いまを生きる」と「自己受容」』

未来デザイン考程についての記事を書く中で、

(過去)・現在・未来という概念が出てきます。

特に未来と現在(今)についての関係と未来デザイン考程に触れていく中で感じたことを書いてみようと思います。

 

まずは、私が未来デザイン考程を学ぶ際のファシリテーターを務めていただいた、井上淳之典のの言葉をお借りします。

「いまを生きる」というのは、
過去も未来もすべて忘れ、
好き勝手、気ままに
生きる姿勢のことではありません。
 
いまという時間の中には、
過去も未来もすべてがあるんだと
常に意識できるということです。
 
そして、いまという時間を
真に生きている人は、
たいてい自己受容もできています。
 
でも、ここでいう自己受容とは、
素敵な自分を愛するとか、
自分を好きになることではなく、
まして、自分を「スゴイ」と
おもうことでもありません。
 
自分の好ましい姿だけでなく、
できない自分やダメな自分、
嫌いな自分もそのまま受けとめられ、
うまくいっている現実だけでなく、
うまくいっていない現実も同じように
きちんと直視できることです。
 
真に自己受容できている人が
なぜ、現実をそのまま
直視できるかといえば、
うまくいくとか、
うまくいかないとかという
判断自体を手放せていて
とらわれていないからです。
 
よって、「自分はスゴイ」でも
「自分はダメだ」でもなく、
自分をただの人間として
事実をありのままに
正しく把握できるのです。(2019.2.5) 

 

未来デザイン考程では確かに”未来”のために自分にできるアクションを考え、行動する力になってくれます。

しかしながら、

自分がどう生きたいか(在りたいか)?

を自己と対話する必要があるし、

現在の自分の状態を、正しく整理できなければ、

”未来”のことは考えられません。

”未来”なんてものはそもそも見える訳のないものだし、

見えなくても生きていけます。

もし、未来を不安に思うのなら、そのほとんどが

現在の自分の状態が見えないことによると思っています。

井上さんの言葉の中に

 いまという時間の中には、
 過去も未来もすべてがあるんだと
 常に意識できるということです。

とあります。

未来デザイン考程を利用し、

未来について考えようと試み、

未来について考えるステップを学んだ結果、

最も大切なのは、”今”でした。

 

終わり

未来デザイン考程 5:方法立案

未来デザインについての投稿をしています。

未来デザインについての紹介と、その未来デザインに出会った学びの場の紹介についての記事がこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

 

1〜6局面で構成されている未来デザイン考程の、 1〜4局面までの記事はこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

gt-24o.hatenablog.jp

gt-24o.hatenablog.jp

gt-24o.hatenablog.jp

 

私は、1〜5局面を2周しました。

現在投稿しているのは、1周目のものです。

今回は第5局面の方法立案についての記事です。

実際のシートはこちら。

f:id:gt_24_o223:20190214234811j:plain

未来デザ 2018.7.13 方法立案.pdf - Google ドライブ (PDFはこちら)

 

第4局面(要所解明)では、未来に視点をおき、現在を見て(予悔)手を打つべき現状を可視化しました。

 

その現状に対して方法立案局面では、「方針」をいくつか決めます。

 

私感ですが、

この「方針」はこれまでの1〜4局面までを丁寧に積み重ねていけば、自然と浮かび上がってくるような感覚がありました。

「方針」に対して、いくつかの具体的な「方策」もデータとして出していきます。

「方針」は1〜4局面から導き出されたものなので、ころころと変えない方が良いデータに対して、

「方策」は1アイディアやひらめきで形は変わっても良いデータとなります。

 

・1〜5局面を終えて

仕事に対する見方に変化があった。

(色々な働き方があるので一概には言えませんが。)

(現在の)仕事は、自分の人生の理念を全て達成させる場でないということです。

もちろん、近いものを選んだ方がやりがいを感じられる場面は増えるでしょう。

(私は割と近いものを選べているなぁという実感があります。しかし、どんな仕事をすることになってもシンプルに自分の人生の理念と重なり合うように自分の力を使っていけばいいんじゃないか?とも思っています。)

ありきたりにはなりますが、仕事は相手がいて成り立つものです。

自分がいかに正しいと思うことでも、どれだけ学んでいてもそれを受け入れてくれる人がいなければ価値はありません。

仕事で全て達成しようとし、その環境に求めてしまいすぎると苦しくなります。

私の職場は学校です。学校は社会の縮図と言えるような場所ですから、子どもも大人も色々なチャレンジができる場であってもいいのではと今でも思っています。

しかし、現職場の現状を見ることも大切です。

 

仕事でできないなら他でやろう。

自分の能力や特徴が今の仕事場のすべての場面で活かされることなんてなかなかないでしょう。だから協力する。

自分の力が活かされそうな環境は仕事場以外だって探してみるとあるものです。

それを探すほど仕事で疲れるなら、ほどほどにすればいい。

(ほどほどが簡単にわかれば苦労しない。笑 けども、未来デザイン考程をやり続けてみて少しずつわかってきたような気がします。)

自分の能力を活かす場がないなら作ればいい。

教師塾という教員とそうでない人がともに学ぶ場所を作って、次で9回の開催になります。

第9回 教師塾 〜てつがく対話をしてみよう〜

この場と職場との大きな違いは、評価にさらされているかどうか?だと思っています。

評価のなく、参加者それぞれが自分の感じたことを自分の糧にしていけるよう場ではないかと。

今後は少し違った、学びの場を作れたらと考えています。

また皆さん、アイディアを頂ければと思っています。

 

未来デザイン考程の記事はこれにてひと段落とさせて頂きます。

進展がありましたら、2周目についての記事もまた書こうと思います。