gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

今はわからなくても…の先はあるのか。

学校(現職場)で

「勉強が何の役に立つのか?、何のために勉強するのか?」

という質問について考えたい。

(この質問を言わせてしまっている時点で生徒には申し訳ないと思う。今の学び?勉強?が今の彼らには役にたっておらず、今後も役に立つイメージが全くわかないから聞いてくるのだろう。その反面、高校に進学せず働くという道もあるのも事実。言い訳のためなのか、何とか勉強するための質問なのかも大切だと思う。

この二つの気持ちについては最後に詳しく。)

 

学校で勉強することが役に立つかどうかの全てをいま知ることはおそらく出来ない。

出来てしまえば、学校で勉強する必要もない。

しかし、対話の中で納得解を探ることはできると思う。

※対話の中で納得解を探る取り組みについてはこちら↓

gt-24o.hatenablog.jp

 

それでも、学校での勉強に意味付けが難しかったり、

どうしたって価値があるかどうかわからないことがある。

よくよく考えれば、そういうことはたくさんある。

漢字が読めること、数が数えられることなど

時と場合によるが、生きていくのに必要なことを少なからず学校で身につける機会がある。

これらを学ぶときに、

漢字が読めなくてめちゃくちゃ困っていたのだろうか?

数が数えられなくて困っていただろうか?

タイトルの通り、

「今はわからなくても、この先必ず生きてくるんだよ。」

という事柄は困る前に学ぶことが多い。

 

ここで最も伝えたいことを。

教員が、

「今はわからなくても…」の先を言語化できているか。

また、その言語化した内容を生徒がすぐに実感せずとも、伝えようとし続けているか。

 

また、

生徒が、

「勉強は何の役に立つのか?勉強はなぜするのか?」

を問うた時に、自分なりに、手を動かし、勉強に向き合って、自分に向き合っているかどうか。(やらない言い訳のためにこの質問をしていないか。)

 

学校で勉強することは、なかなかハードだ。

評価もされる。選べることも少ない。

しかし、意味付けをしなくたって事実として学ぶことは必ずある。

どこが意味がなくて、どこに意味があるか。

自分にとって何が有用で、何が有用じゃないかは自分で決められる。

それを判断するには手を動かし、自分でやるしかない。

 

だから、教員と生徒は対等な関係のもと両者が対話し、勉強することの意味を考えながらも、手を動かし自分でも勉強と向き合ってみることが大切だと思っている。

 

おわり

世界の見え方

さっきまで美味しいと食べていたカレーを、

強力な洗剤で汚れとして洗う。

 

薬になれば薬草。役に立たねば雑草。

 

学校で嫌いな先生も、

家で待つ人がいる親御さんかも。

 

晴れれば、海の家ではビールが売れる、

でも野菜が育たないかも。

 

自分の世界の見え方は、75億通りある。

自分の世界の見え方はそのうちの一つ。

自分の世界の見え方を大切にするように、

他者の世界の見え方にも寄り添う。

 

おわり

 

ヤキュー part3

f:id:gt_24_o223:20181026182709j:image

本日もありがとう!

キャッチボールをするとき、

相手が自分の全力投球を捕球してくれるというのは、

相手に自分と同じくらいかそれ以上のボールに対する慣れが必要になる。

今日は、

「もっと投げてきてくれ!」

っていうアピールをされた気がした。

キャッチボールも言葉を使ったコミュニケーションも関係性が大事なんだな。

 

おわり

瀬戸市学習教室ピース訪問 part1

https://www.facebook.com/setogakusup/

先週の愛知工業大学への講話

http://gt-24o.hatenablog.jp/entry/2018/10/17/200226

から繋がり、

瀬戸市学習教室ピースへお邪魔してきました。

同教室は大学時代にお世話になった川口先生と愛知工業大学の大学生によって運営がされています。

https://www.facebook.com/1589130128012468/posts/1625250867733727/

学校でも、家でもない場所で先生でも親でもない人と関わりながら学びながら楽しめる場所です。

素敵でした。

 

「どういう場所かを設定しない」

という価値を持っている場所でした。

子どもに対して、大学生が一人ついて、一人ひとりの子どもの様子を見れているようでした。

なかなか学習に取り組めない子、やりとりが難しい子もいます。

それでも人と人で関係していこうとする大学生の葛藤も見て取れました。

どういう場所かを設定しないけど、場を開く者がどういう場所にするのか共通認識を持とうとしている。

 

学校や家庭での課題を大学生個人の裁量に任せてしまっていいのだろうか。

という川口さんの言葉も印象的でした。

 

誰かがやらなければいけないのですが、

より自然なシンプルな関わりが出来れば子どももわかってくれるんじゃないかなと感じました。

 

おわり

結果もゴールも目的もない学び

テスト点のためだけの勉強は点数を取ることが主目的。

点数を取るための勉強が悪いわけではない。情報を編集したり、記憶する能力、見通しを立てる能力もついてくるだろう。

点数を取るため”だけ”だと少し心配だ。

点数が目標点に乗らなかったりすれば、その学びは途端に意味のないものになりかねない。

「テストでは点数が取れなかったけど、こんなことを知れたし、前に学んだこととつながる部分もあったなぁ〜」

くらいが自然な気がする。

テストで点数を取ること=勉強

だと少し寂しい。

(とは言っても、自分が自分らしく学んだことが点数化され評価されてしまえば「学んでみようかな〜」なんてなかなか思えないと思う。)

 

目的、結果、ゴールがなくても学んでいいし、

学んでいくと見えていなかったものが見えるようになってきたり、

新しい視点が見つかってくる。

心配が心配ではなくなり、叶えられない理想が近づいてくることもあるかも知れない。

 

まずやってみよう。

おわり