gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

”集団”は存在するか

私は学生の頃から、

「◯◯◯◯ということがありました。誰がやったか知らないけど、こういうことがあるのは残念だ。気を引き締めて生活してくださいね!」

みたいな話が嫌いだった。

その何かを起こしたのは、自分ではない誰かか、誰か達である。

全く自分に関係のない話で注意喚起をされねばならないのか。

と思っていた。

今は、こんな話をするかもしれない立場にいるわけだが、無根拠での注意喚起に意味はないと思っているのでしない。

 

集団がそこにあるような感覚で集団に向けて話すと、

なんだか誰にも話をしていないような感覚になる。

話される側になれば分かりやすいかもしれません。

私は”集団の一員”ではなく、一人の人間なんですよね。

なんか蔑ろにされている気がするんです。(私だけ?笑)

 

人が集まると集団に見えますが、

”集団”というものは実は存在せず、

個が集まっているという感覚で集団の前に立つと、個人がしっかり見れる。

色んなことが楽になるなぁと思う。

 

おわり

"まずは体験する"場所

学校は他者との関わりを体験できる場だと思う。

しかし、

他者との関わりを円滑に行うようにならないといけない場所ではない。

体験した本人が得意なら関わればよいし、

苦手なら程々でよい。

苦手だけど関われるようになりたいなら私たちは支援すればよいと思う。

 

協調する人がいて、

一人で黙々とこなす人がいていい。

みんなでやらないといけないこと

と、

誰とでも、一人でもやっていいこと

がいいバランスであるといいのになあと思う。

少なくとも授業はそうしていく。

 

おわり

 

自由の線引き

 

gt-24o.hatenablog.jp

この記事の前提になる記事です。↑

 

学び手は、

学びにきている学校でも、

現象として、

(授業中に)眠ってしまったり、やる気が出ない時もある。

(そんな日は休んでしまったっていいんじゃないかって思う。家で自分のペースでやれば授業の内容分は学べるんじゃないかな?)

それを、

「教員が許すかどうか?」

などという謎の問いを立てるのはいまいちだと思っている。

立場の違いを利用してジャッジするのは、どちらもいいことがない。

 

学び手には寝る自由がある。

教員は学んでほしーなー・・・と願う自由がある。

教員が学び手に学ぶっぽいことを強要させる自由は、自由ではないと思う。

ある自由を立場やパワーで侵害する自由は自由じゃないと思う。

 

私は、学校にきて朝から昼前まで寝てる生徒がいたら、

10分くらいやろうとしてみてもいいんじゃないかな?

とか、

なんかあったんかな?

とか、

座って授業がつまらないってだけで、寝るのを選ぶクセがついてしまっているの勿体無いなー

とか、

昨日ゲームしてたのかな?

とか、

部活の朝練がつらいのかな?

とか、

色々考える。

 

色々思いを巡らせると、授業は終わってる。

「授業中に寝てる生徒を起こさないのは、生徒指導上、良くない。」

とか言われると困る。

でも、本質的に私は困っていない。

その学び手が、寝ていることによって学びを生み出せないことから、困り果てることがあるかもしれない。

だけど元気になってその日家でバリバリ学ぼうとしているかもしれない。

寝ることで、学びを生み出せないけど、体調は戻るかもしれない。

寝ることしか、椅子に座ってつまらないことをしなければならないという強制の対抗策(代償の清算方法)を知らないのかもしれない。

まぁこんなことを考えていないで、起こして話をすればいいわけだが、

いまいち深い話はできないし、説教してるみたいになってしまう。

そういうことでしか、声をかけてもらえないとなるとなおその行動は強化されさらに寝てしまう。(だから雑談が重要)

 

となると私にできることはシンプルで、

クラス全員が、

授業をやってもいいかな?って思える仕掛けや仕組みを自分は作れているのかな?

と自分に問い続けることだ。

自由の線引きをして、やれることをやる。

それだけなんだと思う。

 

おわり

学校や教員(学ぶことについて)

学校にもよるけど、

僕の関わってきた、関わっている学校は、

学ぶ内容・時間・教えてくれる人・ともに学ぶ人・環境が決められている。

(全て提示されていて選択できることも少ない。改善や改革を学び手が行うことも少ない?)

これらを色々と決めたい・選びたい学び手にとってはつらい。

 

椅子に座って人が話す知識(内容)を耳で聞いて覚えたり、

ノートを模写したりするのも、

この二つ以外の方法のが覚えやすかったり、認識しやすい人にとってはつらい。

この二つが強要されることさらにがつらい。

 

学校で学ぶことが辛い人もそうじゃない人もいる。

それはOK。

我慢して学校に通うのも自由だし、学校を辞めることも行かないことも自由だから。

(自由とは簡単に言えてしまうけど、小学、中学、高校にはほとんどの人が行くから、行かないって選択をしていいことも知らず、多くの選択肢から選べるかどうかも知らずに、すでに身動きしにくい環境にいて、”学びの形”が決まってしまっていたりしてしまうことは少なくないと思うからやっぱりつらい。)

 

「つらいけど、その中でどう楽しめるか?」

を模索するのが私は好きだし、ここにこそ大いなる自由があると思っている。

ここもその人次第。 

 

じゃあ、教員は何をする人なんだろうか。

豊かな学びを生み出したい・得たい人を手助けする人なのかなと思っている。

 

学びを生み出す手助けする人は少なからず、学びを生み出せばどんな豊かなことがあるかのかを体感していて、軽くオススメできたりサポートできる方がいい。

 

学校で授業や本の紹介などするサークルができた。

楽しく、緩やかにアツイ。

今日は授業を見てもらえた。

[本日の学び]

「個人と集団、どちらに目を向けるかによって授業の構成やシステムに影響が出てくる。」

 

 

おわり