楽しさ、悲しさ、恐怖 etc…
感動、興奮、夢 etc…
学び、資格、能力、芸術? etc…
色んなことがパッケージになっていて、それに金額が設定されている。
そのパッケージを外側からみて、予想して金額と相談する。
消費者であること(サービスを受けること)に意識が偏ってるような気がする。
感じることはいつでも、誰にでもできることだと思う。
誰かから与えられるものではない。
つまらないのはコンテンツじゃなくて、
その中から楽しさを見出せない自分がつまらない。
これをやったらどれくらい楽しいか?
ってのをやる前に予想する。
これを学んだらどんな意味がある?どんな得がある?
ってのを学ぶ前に予想する。
(こう考えるのが悪いわけじゃなく、バランスが偏ってるかも?という話。)
これは学校の中にもあって、
「我慢して座って授業でてんだから、楽しませてほしい。意味のあることを教えてほしい。」
って感じだ。
(そりゃそうだ。自分も生徒側の時には思ってた。今も強制された場合はこう思うことがある。)
学校(現職場)での学びのシステムが、この考えに至りやすいものになっているから仕方がない気もする。
これは教員である私が授業などをする時に困っているわけでも、学習者が悪いとも思っていない。
学んでは欲しい。
だけど、外的な動機付けや刺激がないと学ばないとなると彼らのためにならない気もする。
当事者意識がもてるような、システムや関わりを今後も続ける。
おわり
追記メモ
子どもたちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している。
追記メモ2
サービスを受けよう、受けよう
とするのには限界があるような気がして、提供する、用意する側に回ることが生活の一部(義務的に行う以外のところで)でもいいからあればいいなって思ってる。