書くとは、探すこと
書くとは、記録すること
書くとは、自分と対話すること
書くとは、吐き出すこと
書くとは、伝えること
書くとは、表現すること
書くとは、遊ぶこと
書くとは、組み合わせること
書くとは、キーを打つこと
書くとは、覚えること
書くとは、選ぶこと
書くとは、紡ぐこと
おわり
書くとは、探すこと
書くとは、記録すること
書くとは、自分と対話すること
書くとは、吐き出すこと
書くとは、伝えること
書くとは、表現すること
書くとは、遊ぶこと
書くとは、組み合わせること
書くとは、キーを打つこと
書くとは、覚えること
書くとは、選ぶこと
書くとは、紡ぐこと
おわり
何でも良い
というのは選択肢が膨大にある。
「いつか君もメジャーリーガーになれるさ!だって、君がメジャーリーガーになれないことを証明した人はいるかい?」
なんて言われた日には、たしかになれないことはないことになる。
可能性が無限大であることは、時にウンザリする。
選択肢が無限大であることも選ぶのに疲れる。
選択肢が多すぎると、だいたい今までのを選んだりする。
ブログも前提として、書く内容は自由だ。
今日は飲み会だ!楽しみだ!
おわり
というブログでもよいし、
今日は空が緑色でした。
おわり
というブログでもいいわけだ。
(よっぽど疲れてもこれは書かないと思いますが…笑)
ただ、書かないと残らない。
疲れすぎてる日や、書く気になれない日もある。
ならば、書く気になれない心境を書けばよい。
書く気にならないことを書くブログも面白い。笑
これからは抽象的な表現で簡潔に一日を表すようなブログを書いてみたい。
いつも500時前後を意識して書いてる。
思慮深さと大胆さに、表現力?抽象力?も織り交ぜられたら良いと思う。
おわり
私たちは人なので、欠点があります。
欠点というか、
あるものを信じれば、あるものは信じないわけで。
何かを選択すれば、何かを選択しないわけです。
もちろん多角的に、物事をみて提示できるようになろうとすることは怠りません。
万能であることは難しいから他者と協力します。
自分の中に正しさはあって良い。
けど、他者にも同じだけの正しさがある。
そこを受け止め、理解しようとする姿勢が大切だと思います。
(対等な関係をもって接することが大前提とはなりますが。)
話し合いをする時には、正しいか正しくないか?を決めるのではなく、
どこが自分の長所で、
どこが自分の短所か、
を話し合うのがいいと思うのです。
一つの正しさとは、
一つの側面でしかなく、
反対側、裏側にあるものを自分で上手に隠したとしても他人にはよく見えるものです。
怒りは色々なことを教えてくれます。
怒りが湧き上がってくるときは、たいてい、自分に怒っていると思っています。
自分の出来ていない部分や目を背けている部分は他者から見るとよく見えてしまうので、そこを突かれて怒ってしまう。
ならば、
そこを認めてしまって自分が何に焦点を当てて、その結果、ここが弱いと説明することがその先にいく扉かもしれません。
ただ、前提や理念、目的、ビジョンなどが違う場合もあるし、
そんなことを考えてすらない場合もあります。
そういった場合は、こちら側が面倒になってもう関わる必要がないと思うまで向き合うことです。
ただ、人は違う(違いすぎる)存在であり、
それに気づいていくために関わるのに、
違うことに落胆して、
「理解できない。」
と言われてしまうと辛いですね。
「理解できない。」のではなく、
理解する気がないのだろうなと思います。
思考停止状態です。
あいてが思考停止状態になっても自分はそうならないよう、良く聞くことが大切なんだろうと思います。
おわり
学生の頃は理論が先行します。
社会人となるとき困らぬよう、知識を身につけるという具合です。
一度、社会人となると体験が過剰気味になる気がしています。
準備してきたのはいいものの、準備してきたことの中に、人生がまったく楽しめないほどの欠落があるとやっていけなくなる。
それは辛い時間です。
私自身も体験が過剰気味な気がしながら生活をしています。
そんな中、本を読むと、本を出すほどに突き詰めて考えている人に活字を通して出会い、体系化した知識を得て安心しつつ、次の手が打てる。
"安全な"体験の中から同じようなことを考えている人と共に学ぶことで、安心し、次の手がうてる。
体験と理論とバランスは大切だと考えています。
しかしその中でも、大人、子ども共に圧倒的に足りていないのは、"安全な失敗"だと思うのです。
安全な失敗の場をつくるのは、まずは大人側ではないでしょうか。
まずは私たちがチャレンジして、失敗して、
何が安全で、何が危険なのかを知っていくこと。
そうすれば、して良い、させて良い失敗が見えてくると思います。
おわり
私のブログを遡って読んでみると、
言葉を遊びをしているのに気づきます。
周りにある当たり前に批判的な姿勢を持ち、
いつも使ってる言葉のそもそもの意味を考え、自分特有の意味をつけていく作業をブログで行なっている傾向があります。
そのせいか、どんどん、他者と使う言葉の意味が、違ってきて話が合わなくなります。
合わなくなるというより、話せなくなるのです。
他者自身が言葉の意味に自覚的で、当然のように違いがあることを知っている。
かつ、言葉の意味を考えるとうプロセスを踏んでいるかにもよります。
こんなことを考えるに至った本はこちらです。
僕の中ではかなり衝撃的な内容になっています。
コツコツと続けてきたこと、
自分の思考の癖を見事に体系的に説明してくれていて、感動と笑いが起きています。笑
自分なりに哲学という言葉の入り口に立てた気がします。
苦しさもありますが、まだまだこのまま進んでみようと思います。
おわり