gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

言葉を交わした後

人と言葉を交わした後に振り返ることがある。

もっとこう表現できれば、

この言葉をつかえれば、

もう少し笑顔で、

などなど。

相手に不必要なストレスをかけてしまったのではないかと、振り返ることが多い。

このように振り返る時は、自意識(自分がどう思われているか)に振れている時だ。

自分を意識すればするほど、不自然なコミュニケーションになりがち。

自意識に振れてくる時は、

一人の時間が多くなっているときだったりする。

 

この辺のことをザックリ解決してくれそうなのは、自然な笑顔な気がする。笑

おわり

教える 教えない 何もしない part4

[「教える 教えない 何もしない」 の振り返り]

~教える側として、”教える”、”教えない”ことを追求するということ~

・学びの主体者に教えることが上手だと思われない。(主導権を渡すのが上手。)

・時間を共に過ごした後に、スッキリとモヤモヤがある。

・学びの主体者のことを信じている。

・(教える側としての)自分という存在に濃淡をつけている。(ついている?)

 

自分は、自分のことがまだまだ気になるので、自分の中では自分が濃いのだろうなと。

更に薄く、より濃淡をだしながら教える立場としての役割を果たしていけると良いと思う。

おわり

教える 教えない 何もしない part3

[何もしない]

”教えない”ことで教えたいことがある。

けれども、”教えない”ことも”教える”と同じように押しつける部分がある。

「主体性を伸ばしたいから自由を与える。」にも、自由を強要している部分がある。

(「自由を与える。」と言っている時点で自由でない気もする。)

 

では”何もしない”とはどんな状態か。

① 学びの主体者に興味がない。

 → これがなければ何も生まれない。

② ”教えない”という手段に囚われている。

 → どちらかが良い!これ必ず良いからやらせる! では、

  ”教える”ことの強制と何らやっていることが変わらない。

③ 学びの主体者を見続けるという、責任を負っていない。

 → ”教える”、”教えない”のバランスを保つためには、学びの主体者のことを見続ける

  (決して管理するわけではない)ことが大切。

   教える側はいつもバランスを見ながら、適度な距離感をとっていく。

   そして何より、共にする時間が何よりも大切。

教える 教えない 何もしない part2

[教えない]

① 教えなければならないことは?

究極的に言えば、学びの主体者が知りたい何かを自分なりに感じ取り、自分の答えを持てれば良いのであれば、教えることはない気がする。

そのスピード感では(本人ではない誰かが)困るし、教えることで主体者が生きていく上で助かることがあるから学校は教える場所なのだと思っている。

「1+1=?」

このときに、

自分で考えてみて!と言われても、

それぞれの意味がわからなければ、問われていることすら気づけない。

「1」とは何か?

「+」とは何か?

「=」とは何か?

「?」とは何か?

こう考えると知識はとても大切。

何も知らない子どもに何かを教えていくということは、

その子ども通りの表現力や伝達力が必要なのだと思う。

 

 

② 教えなくて良いことは?

・授業は何時まで?

→ 時間割をみましょう^^

・教科書は何ページですか?

→ 黒板みてください^^(書いてあります。笑)

・トイレに行って良いですか?

→ 「いいえ」とは言えないので、自分で適切なタイミングかどうか考えてください^^

・どんな練習をしたら良いと思いますか?

→ あなたはどんな練習が良いと思いますか?

など。笑

 

表面的なことですが、大切なことだと思っています。

選択して、責任と行動をセットにすることで、

教えなくてよいこともあるかもしれません。

体験することも大切だと思います。

(選択と責任や、体験することを教えたい。) 

 

”教えない”ということは、

1 まずは問を投げかけてみること。

2 その人が感じたことを大切にすること。

3    その人にあった情報(本や人物)を自然にファシリテートすること

 

教えないことで、教えたいことがあるんだろうな。

教えないことを考えるときには必ず、
教えることを考えることになる。

教える 教えない 何もしない part1

[教える]

① 学ぶ側は知りたがっているか。

学びの主体者が知りたいと思っていないのに、こちらが教えたいから(教えなければならないから)という理由で教えることを強要していないか。

知識をサンドバックのようにたたき込まれるのは辛いモノがあります。

また、学びの主体者が知りたいことを伝えようとしながら、そこからずれて自分の体験を伝えてしまう場合もあります。気をつけたいです。

 

② 知った気にさせていないか。

知識が詰まった完成度の高い話や、構成がまとまった学習プログラムは主体者の学びのゴール地点を設けがちです。評価しなければならない時以外は、伝えるものに繋げてモヤモヤしてもらった方がその先の学びに繋がる気がしています。

 

③ 対等な立場で接しているか。

学びの主体者が知っていることもあれば、教える側が知らないことがあります。

教える側は全知全能の神ではありません。

お互いが存在することによって、高め、広め、伸ばし、深め合える関係がよいです。

教える側は自分が有能であることを過剰にアピールせず、

学びの主体者が、学ぶ姿勢を持ち続けられ、

やがて教える側はフェードアウトしていく。

だが、、、”ここにいる・・・”

そんな立場であることが良いかなと思います。