gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

教える 教えない 何もしない part1

[教える]

① 学ぶ側は知りたがっているか。

学びの主体者が知りたいと思っていないのに、こちらが教えたいから(教えなければならないから)という理由で教えることを強要していないか。

知識をサンドバックのようにたたき込まれるのは辛いモノがあります。

また、学びの主体者が知りたいことを伝えようとしながら、そこからずれて自分の体験を伝えてしまう場合もあります。気をつけたいです。

 

② 知った気にさせていないか。

知識が詰まった完成度の高い話や、構成がまとまった学習プログラムは主体者の学びのゴール地点を設けがちです。評価しなければならない時以外は、伝えるものに繋げてモヤモヤしてもらった方がその先の学びに繋がる気がしています。

 

③ 対等な立場で接しているか。

学びの主体者が知っていることもあれば、教える側が知らないことがあります。

教える側は全知全能の神ではありません。

お互いが存在することによって、高め、広め、伸ばし、深め合える関係がよいです。

教える側は自分が有能であることを過剰にアピールせず、

学びの主体者が、学ぶ姿勢を持ち続けられ、

やがて教える側はフェードアウトしていく。

だが、、、”ここにいる・・・”

そんな立場であることが良いかなと思います。

教師塾 2017.7.26

『学校の教員が様々な”先生”と交流し、学び合う場所をつくる。』 先生は、「先に生きている。」これ以上も以下もないと考えています。 先に生きる大人として、人として魅力ある人が“先生”です。
どんな先生が魅力的か?
着実に一歩ずつ行動でき、学び続けられる人です。
ということは、どんな人だって”先生”になりうるということです。
それぞれの学校で、目の前にいる子たちと接するプロが教員です。 教員は頑張る人ほど学校にいる時間が多いです。
だから、視野を広げるためにも、苦しいことをかかえこまないためにも、学校のことを学校の中だけで 考えるだけではなく、様々な立場の大人が集まって考えたいのです。 多くの人が学校を経験し、社会に出ていきます。
教員は学校しか知らないという方も少なくないと思います。
学校から、社会に旅立つほとんどの子どもは、学校の教員になりません。 学校にいた子どもたちが大人になり、学校以外の場所で様々な経験をしています。 その経験をアウトプットしてほしいです。
学校の教員は、学校内のことを学校外の人と考えることで、新たな気付きにつながります。 教員ではない”先生”は、あなたが大切にしてきたこと、していくことを現場の教員を通して、子どもた ちに伝えてほしいです。
「教師塾」を通して参加者同士が、”先生”としての魅力に磨きをかけ、子どもたちがより良い方向に進 んでいくために影響を与え合う場になればと考えています。

困る と 学ぶ

学ぶ理由の一つに、自分が”困る”ことがあると思います。

困り感を解消するために学ぶ。ということです。

ではなぜ困るのか?

「こうなりたい。」というイメージがあり、

課題を課題と捉えて向き合っているから困るのだと思います。

ただ、困り方も大切だと思っていて、

自分の深いところにある解決しなきゃならないことを捉えること。

アタマで考えたエゴが捉えるのを邪魔してきます。

本当に解決しなければならない課題は、向き合うのに一苦労。

向き合い続けるのに一苦労、行動するのにはかなりの苦労です。

 

さらに思うのは、解決することが目的ではなくて、

課題と”向き合い続けること”だと思います。

要するに、困り続けて下さいということです。笑

 

困り続けるということは、学び続けることになるし、

解決しないってことは、わかったつもりにならないってこと。

 

困らなくなってきたときこそ、

見えない部分をみていく姿勢が大切ですね。

おわり。

きれいごと抜きのインクルーシブ教育

きれいごと抜きのインクルーシブ教育

私の担任するクラスにも、この本でいう"あの子"がいます。

私は高校教員ですので、一日中同じ教室で授業をしたりすることはありません。

その代わりに、各教科担当から色々な報告やご意見を頂きます。

同じ教室のクラスメートからも心配する声が聞こえてきたり、怒りに近い意見も出て来ます。

 

"教師が(あの子にとって)学校での人としての砦です。"

 

他教員にも、クラスメートにも言い過ぎてしまう人がいます。

それは、人権侵害ともとれる内容です。

クラスメートには私から話し合いを持ちかければよいですが、他教員ともなると難しいことも(教員のがひどい場合も)あります。

つくづく思うのは、

まず出来ないことを受け入れた上で、この瞬間から何ができるかを対話を通して考えることだと思います。

これを私がしなくなれば、砦はなくなります。

もちろん、対話をしていればよいというわけではありません。

そこが、今回の"きれいごと抜きの"の部分につながります。

どうしても共同生活の中で摩擦が生じやすくなったり、説明中に発言してしまったり、忘れ物があったり、授業で寝てしまったりします。

 

"みんなを「普通」にしようとしていか"

 

これはとても感じます。

職員として働いている私でも息苦しさを感じるほどです。(これは私の人間的な資質によるものだと思いますが。笑)

学校として守らせねばならないことはあります。

しかし、本当に必要な「授業規律」なのか?みんなと同じことがそんなに大切なことか。

 

ルールをみんなで破ってしまうのではなく、

ルールの意義をみんなで考えることが大切だと考えます。

物事を多角的に捉えて、

"例外の作り方"や、

(全員でない)みんなが良いと思える第3案を考えることが、

"あの子"の居心地を保証し、

その他の子たちも我慢を強いらないことにつながると考えています。

 

私自身が自分に染み付いた"普通"を認知すること。

その上で自分のタイプを理解して、指導していくこと。

この2つが大切になりそうです。

おわり。