gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

大人も子どもも疲れてる。

今日が疲れのピークな気がします。

身体がそう言っています。笑

 

しかし、毎日が楽しいです。

 

子どもも疲れているように感じています。

大人も子どもも目一杯になっている今こそ、こちらは余裕を持って接したいと思っています。

ゆっくり話して、じっくり授業する。

子どもの些細な疑問を、意見を聞いて行動して次の日には対応する。

そんな小さなことが大切な気がしています。

41人でクラス運営していく。

そんな雰囲気を大切にしたいです。

おわり。

 

言葉の蓄積

ブログは自分へのメッセージとして書くことが多い。

自分に言葉をかけるような感じだ。

 

そうすれば、行動にも微々たる変化があらわれるんじゃないかと思っている。

誰かに指摘したことを自分が出来ていなかったり、

どこか他人事でとってつけた言葉をかけたてしまうと反省する機会が増えた。

 

そしてこれは、他者にかける言葉にも同じことが言える。

どんな細かいことでも、言葉を選ばないとそれが蓄積していく。

うっかり自分がしたくない表現をしてしまうことがある。

常に自分に問い直して、

細かな言葉にまで気をつけていく。

そうすることで、本当に伝えたいことがじんわりと伝わっていくのかも知れない。

おわり。

考える楽しさ

普及版 考える練習をしよう

思慮深くブログを書いてみたいと思って、京都旅行の時に購入したこの本。

面白いです。

読むのは読むのですが、実際に家を飛び出してやってみないとわからないこともあります。

 

・信号の一番右は何色ですか?

自由の女神はどちらにたいまつを持っている?

・あなたのクラスに左利きは何人いる?

・えんぴつは何角形?

・男性がきるシャツのボタンホールはタテに空いてる?よこ?

・職場までいくのに、赤色のものは何個ある?

・腕組したら、どちらの腕が上に来る?

 

などなど・・・

そんなの意識していないとわからないよ・・・

ということが多すぎる。笑

 

まだすべてのページは読んでいませんが、

私の感想としては、

なんとなく見て、なんとなく認識していることが多い。(わかっている気になっている。)

この本を読んで、近所をぐるぐる回ってみましたが、新たな発見だらけでした。

特に、自転車の時や歩いているときに、下(道)を見ていたり、特定のモノしか見ていない自分がいました。

”見る”こと一つとってもかなりのクセが自分にはあるんだと思います。

そんなクセを気づかせてくれて、日常を新鮮にしてくれる。

おすすめ本です。

おわり。

部活動の私物化

今日でクラスの生徒面談が終わりました。

どの生徒の面談でも、部活動のことを取り上げました。

よく耳にしたのは、

「中学で部活は疲れたんです。」

とか、

「楽しい感じの部活動がいいんです。」

という声だった。

 

私が一番、悲しかったのは、彼らが

”何につかれたのか?” である。

「厳しいこと、頑張ること、真面目なこと=美徳」という価値観?を、押し付けられる事で、

スポーツを楽しむだとか、

仲間との時間だとか、

そういったものより、

「(先生の作る)頑張る雰囲気の部活動についていけるか?」

という判断基準になってしまっている気がする。

 

そりゃたくさんの人間が集まれば、色々な価値観がある。

顧問としても、基準を設ける必要もある。

ただ、

「頑張っている人間が正義。」

だとか、

「苦しみや我慢の先に”何かが”ある!」

というもの。

これらの、

頑張り、苦しみ、我慢 の目的をだれが決めたのか?

というのがとても重要になると思う。

 

教員がこの基準を決めてしまえば、私は教員による部活動の私物化だと思う。

子どもが選択して、自らのために自分に課した、

頑張り、苦しみ、我慢

であれば、それは彼らのためになると思う。

(彼らが自分のためだと思っているのだから当たり前である。)

 

今年の部活動登録で、2年生が深刻な顔をしながら、

「他の部活に移りたい・・・」

と言ってきた。

選択するのは生徒なので、何の問題もない。

 

部活動に来るかどうかは、君の時間をどう使うかだし、時間は君の人生だと。

選択していいんだと伝える。

そうすると、涙を流していた。

言い出せなかったんだと思う。私は責任を感じた。

そこまでになってしまう、この雰囲気は何なのか。

 

私の考えるシンプルなルール。

「部活動はやりたい人がやる。」ということの本当の意味(ほんとにそのまま。)を伝えるのに、3年かかるかもしれない。

おわり。

 

14年、17年、21年

それぞれ、中学、高校、大学を卒業すると、就職するかどうするか?

という話になる。

私は17年生きて、「先生がやってみたい。」と思った。

大学に行き、4年(正しくは5年)かけて、”教員”という職に就いた。

 

26年経った今は、仕事もその他も刺激的な毎日を送っている。

 

それでも、違和感は0じゃない。

この”違和感”ってのは、自分の力を違った形で誰かのために使えないか?

ということだ。

だから、日々模索しながら、迷いながら、生きている。

迷うことに、情けなさを感じたりもする。

 

そりゃ今までも迷うことはあったが、

今と比べれば、今までが迷っていなさすぎな気もする。

迷う時間が少なすぎる気もする。笑

 

ならば、次の決断があるとしたら、

26年かけても良いのかも知れない。

 

無理やり、選択肢を絞ることも、

今、目の前にあることで視界を埋め尽くそうとしなくても、

無理やり、そこから飛び出さなくても。

 

自分のことをよく考えると、

その時が来た時のフットワークは軽いと思う。

その時が来たって、来なくたっていい。

でもその時のための準備を楽しんでやっていきたい。

おわり。