gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

なぜ、学ぶか part5

「当たり前」、「普通」、「常識」とかっていう言葉がある。

これらの言葉は自分の中には存在してよいと思う。

生きていれば、これらの一つや二つ、三つ四つ・・・笑

でも、世の中(世間)には、これらの言葉に絶対あてはまる何かってのは限られると思う。

それは、何故かというと、世の中や世間を作っているのは、数多くいる全く違う考えをもった人だから。

(世間というのは、不確定な人の集団でまったく見えてない。私自身は存在していないと思っています。笑)

自分の中に、「普通」が存在しているのはいいんだけど、(西尾は)他者の「普通」を認知して、許せる自分でいたい。(許すかどうかも自分次第)

自分の「常識」を正当化するために学ぶのか?正当化するのはいいけど、攻撃はしないでいい。

 

「あの人はなぜ、あんな””普通”とかあんな”常識”を持ち合わせているんだろうか?」

と疑問をもって、その人を許すためにはどうしたら?(許せない人だっているけど。)

っていう視点が、学びの入り口だといいなぁと思います。

おわり。

なぜ、学ぶか part4

好きなことをしている時に、

「よっしゃー!!今、学んでるぜ!!」

ってあんまり思わない気がする。

 

学校祭で、ボイスパーカッション(かなりのクオリティ)を野外ステージで披露し、喝采を浴びていた子がいました。(もちろん大好き3年6組のK君)

野暮な質問かもしれませんが、

西:「なんでボイパやるようになったの?」

と聞いてみました。

K君:「んーーーなんでって言われても・・・」

西:「モテたいから?ニヤリ」

K君:「それでいいっすよ。笑」

 

というような会話があり、

実は西尾は一度やってみるも、自分の出来なさと、やろうとしてる恥ずかしさに耐え切れずにやめた。

というところまで突っ込まれ、いじられたというオチなのですが。

 

知らぬ間に、体験と知識を得て、

知らぬ間に経験をし、

知らぬ間に学んでいることがあるとしたら、

それは学びとしては理想的な気がする。

このような状態を「学ぶ」といってよいかどうか迷うところである。

ここで迷ってしまうのは、「学ぶ」という言葉に、真剣さだとか、何かの役に立つかだとか、偏差値だとか、学校でやるものだとかっていう意味合いがこびり付いているからなのかもしれない。

 

興味のないことは、学べない。(ことが多い)

知りたい、体験したいと思わないからだ。

 

だけど、

「この事柄には、興味がわかないな。(無意識のうちに切り捨てている。)」

という状態から、

「この事柄には、興味がわかない気がするけど(※1 今まで認識すらしてなかったけど)、ちょっとやってみるか??」

というように、

興味がわかなさそうだけど、やってみたら興味がわいて、今まで知る由もなかったところに足を踏みいれていく可能性に、かけてやってみる。

これが「学ぶ」ということでもある気がする。

おわり。

 

※1 誰かに言われたことをサクッとやってみることで、自己認識の外側に行けるのだと思っています。(私は苦手なたちですが。笑)

なぜ、学ぶか part3

どんな人の気持ちも分かるようになるのは難しい。

けど、

自分の周りにいて、自分が時間を共にしたいと思う人、時間を共に過ごすことになる人の気持ちは知ろうとして損はないと思う。

そして、そんな人が自然に増えるといいなぁと思う。(決して多ければ良い訳ではない。)

 

「わかるーわかるー♪」

いや、なかなか分からないもんです。笑

だから学ぶのかな。

その人が大切にしていることを、無理なく取り入れてみる。

その一歩もまた、学ぶ理由を知る入り口になりそう。

おわり。

なぜ、学ぶか part2

なぜ学ぶか。

「学ぶ」と言われると頑張るとか、真面目とか、そんなイメージになりませんか?

机に座って、教科書とノートに、教えてくれる人が前に立ってたりする。

 

このようなイメージを「学ぶ」とイコールで結ぶのは少し違うと思う。

 

遊ぶことと、学ぶことは相反することのような気がするけど、

遊ぶことを突き詰めていくと、結局、学ぶこと(知識を仕入れること?)になる気がする。

学校に行ってる時間や仕事をしている時間、すべてを遊びの時間にしたとしよう。

遊びの定義も色々あると思うが、具体的にいうなら・・・

ずーーーーーとダーツでもいいし、ずっとボーリングでもいい。

ずっとババ抜きをやることを想像しても良い。

(ずっと〇〇シリーズで面白そうなの何かあれば教えてください。笑)

最初はいいけど、ずっとはしんどい気がする。笑

 

なぜしんどいかというと、息詰まるから。(飽きる、目に見える成長がとまる。)

でも、しんどくなってから、さらに上の(奥の)ステージに行くには自分の中にある、隠された能力の扉を開けるしかない。

その扉を開けるには、今まで知る由もなかった視点から、遊びをみるしかない。

人間の身体、心、思考パターンを知っていくことになるのかな?

学んだことが生かされ、うまくいくことが増えれば、楽しくなる。

また、壁にぶつかる。また学んで試してみる。

それの繰り返しなのかと思う。

 

学びの入り口はそこら中に転がっている。

入口はなんでもいい。

そこから得意そうな、好きそうなことで続けていくと自然と、学ぶことが好きになれるかもしれない。

おわり。

なぜ、学ぶか

私が学ぶ理由は、「楽」になるためです。

楽になるというのは、

勉強して、良い高校行って、良い大学にいって、良い企業に入ることで、たくさんのお金をもらい、安定した生活による「楽」ではないです。

学びまくって、人より能力を高めて、優越感に浸って、楽になるわけでもないです。

 

生きていくのは、楽しいこともあれば、苦しいことも、悲しいことも、嬉しいこともあります。

でもまぁ、楽しい、嬉しい時間は多いほうがいいなとは思います。

 

苦しいときに、悲しいときに自分だけで、自分の頭だけで、今までの体験からだけで考えても、方法や行動が思いつかないと思います。

 

だから、学ぶんだと思います。

 

自分で、人知れず悩んでいたことがあったとして、

ふと、他者からかけてもらったことで、視界がぱーーっと開けるような感覚はないですかね?

読んだ本の一行が、今までの考えをひっくり返してくれたりとか。

コレを知らずに生きていたのか・・・

なんてことないですか?

 

学びたいと思う人は、たくさん困る人なんじゃないかって思うんです。

たくさん困る人は、たくさんチャレンジする人です。

困って、その都度、学ぶ。乗り越える。

また困る。その繰り返し。

 

困ると辛いです。でも学べば、楽になれる。

楽になったら、次またなんかしたくなる。

それで困る。楽になる。これの繰り返しな気がしています。

 

知っていることを、増やして誰かより優れていることを証明するために学ぶんじゃないです。

少しはちやほやされてもいいかも知れませんが、笑

ちやほやされるために学ぶんじゃないです。

 

私もまた困りたくないけど、困りたい。そんな時期です。笑

おわり