gt-24o’s blog

教員として働きながら、学習・交流団体「教師塾」を主宰しています。わかるとできるの違いに注意しながら、思慮深く、大胆に書きます。

カラダ・アタマ・ココロ

身体と脳と心のバランスは大切だとよく言いますが。(心技体だっけ?)

何が大切か考えてみました。

カラダには、適度な運動(の時間)

アタマには、適度な知識(思考の時間)

があると良いのかなーって思っています。

ココロには、、、

ココロの先に出てくる良い感じの言葉が当てはまらない。

 

あ、言葉(を交わす時間)か。

考えながら、書きながら思いつきました。

ココロには、適度な言葉(を交わす時間)が良いかも知れないです。

すぐ思いつかなかったのは、ココロのことはアタマで考えてもわかんないことばっかりだからだろうと感じてます。

 

私の場合は、最近、アタマが先行している気がします。

ブログを書く時も、「何書こう?」と頭で考えます。

考えられるココロとカラダがあれば、ブログは書けるのですが、1つでも欠けたり、アタマが先行しすぎたりすると書くのに時間がかかります。

先日まで胃腸風邪で動けませんで、カラダが完全に欠けていたので書けませんでした。

 

この3つにバランスの良く刺激をもたらせるものなんだろう?

というテーマでまたブログを書いてみようと思います。

今日の思考はここまで!

身体の声

先週、金曜からウイルス性胃腸炎になっておりました。

食べられない、寝られないのは辛いものです。

食欲が無くなり、食べる時もゆっくり食べます。

消化しにくいものを、とんでもないスピードで食べていたことに気づきましたし、

歩く、考える、話すといったいつも当たり前に行なっていることでも、かなりのエネルギーを使っているんだと実感します。

無意識のところで、カラダは頑張ってくれていることに気づきます。

もう少し、丁寧に生きる必要がある気がした今回の体調不良でした。

カラダを低出力モードにする何かと、

その時間を意識的にとっていこうと思います。

自分のためと相手のための境目

「誰かのために。」

という考えのもと、

言葉をかけたり、行動を起こせる人は素敵だと思う。

でも、その「誰かのために。」というのは、自分の為であることも同時に意識したい。

「誰かのために。」は誰かが喜ぶのが、自分が嬉しいからという側面がある。

究極的に言えば、全部自分の為なのかもしれない。

それでも!

その誰かが、大切であればあるほど、時間を多く共にすればするほど、誰かのために思う。

そして、自分のためと誰かのための境目があやふやになってくる。

(知らぬ間に)自分の価値観を押し付けたくなる。

感謝されたくなる。

 

そんな時は、その人が存在していることに感謝したい。

時間を共に過ごすことができる人がいることに感謝したい。

 

そして、

「誰かのために。」

から

その人のことをよく知り、

「この人のために。」

になっていくと、さらに素敵な関係になる気がする。

 

一緒にいたいなら、

自分の中で、自分の人生を、全否定してくるような事実(価値観、行動、言動)を知ったとしても、それを許すことが必要になるかも知れない。

 

それでいて、それが無理なら一緒にいなければ良い。

それだけのことだ。

 

諦めるのではなく、

踏み込んで、話し合い、

許しあえる。

そんな関係を築ける人になりたい。

教員と教師

教員

・学校に勤務し教育に従事する人。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

・学校で児童・生徒・学生を教育する職務についている人。(デジタル大辞泉

・学校における教育活動を職業にしている教師。(百科事典マイペディア)

 

教師

・人間とくに子ども,青年を指導し,その発達を助け促す人。類似の語に教育者,先生,師匠,師,教員などがある。学校制度発足前には教師,教育者,教員などの語はなく,学芸,武道あるいは歌舞音曲などを教授する人は師匠と呼ばれていた。今日,師匠は茶道,華道など伝統的な芸事の教師について使われるにとどまる。教師が知識,技術の伝達を中心的な仕事にする人とされるとき,教育者はより広く人格形成者という意に使用される。また近代公教育制度の確立以降,法律用語としては教員が使用されてきた。 (世界大百科事典 第2版)

 

・学校で学問を教え子供たちを導く人。先生。教員。教団などで、宗教上の指導をする人。(大辞林 第三版)

 

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教員は、子どもに教育を行い、学校で働いている人。教員は教師でもある。

教師と教員の共通点は、”教える”ということ。

ならば、

親御さんは教師。

後輩のいる中高生は教師。

就職を控える大学生の後輩がいる、新卒1年目の社会人も教師。

塾の先生は教師。

部下のいる課長も部長も社長も教師。

 

”教員塾”じゃなくて、”教師塾”

伝達と表現

人が話す?ことは、この二つに分けられるみたいだ。

 

去年のSTEPにて、私の師(勝手に師と呼ばせて頂いています。)の言葉だ。

ここ2か月の間、ずっと頭に残っているフレーズである。

 

私なりの「伝達と表現」について。

伝達・・・事実を伝えること。連絡。ST(朝の会、帰りの会)に伝えないと、子どもたちに迷惑がかかるようなことを、伝えるときに用いる。

表現・・・一人の人(私)が感じたことを、伝える時に用いる。主観的な気持ちを伝える。君たちにはこんなクラスになってほしい!こうしていこうぜ!みたいな・・・

 

子どもたちに、伝達をするのか表現をするのかを、話し出す前に宣言をすると、話が聞いてもらいやすいのでは?と感じている。

子どもは、伝達事項を聞かないと、個人としても、クラスとしても困る場合があることを知っている。

こちらとしても聞いてもらわないと困るので、責任を感じながら聞いてもらうよう呼び掛ける。

 

私としては、表現内容は聞いてもらえたらラッキーって思う。

私が表現することが、つまらない場合もあるから。笑

子どもたちに表現する内容は研ぎ澄ましているから自信はある。

だからこそ、聞いていなくても仕方がないか!と思うことが出来る。

それに、聞いていくれている子どもは、必ずいるからそういった子たちを大切にしたいなって思う。

 

そして、たまに心の底から聞いてほしいことが沸き上がる。

(たまに?結構かもしれないが。)

表現だけど。とーてーも聞いてほしいことだ。

心の叫びに近いもの。

こういう時は、子どもは聞いてくれることが多い。

こういうときも、子どもは空気読んで、察してくれているんだな。って思う。

 

話を聞いてもらえない、話が通らない。という状況に陥ったらこの、

「伝達と表現」を意識して見直そうと思う。